ミルトンフリードマンの『資本主義と自由』を読了。そして読書会の皆様方とdiscussionさせて頂いた。知的刺激に満ちた時間を共有させて頂き感謝。
<原典にあたることの重要性>
読書会でお世話になっている@Yukiko_Fujiyukiさんのtweetから引用「昨日は、あらためて原典に戻ることの大切さを感じました。翻訳や要約の過程に曲解されることはままある。 容易に情報が入りやすいことは、容易に誤認された情報も入りやすい。 これからも時間を惜しまず、古典・原典と向き合おう。それが正しい理解への近道。」@Yukiko_Fujiyukiさん、素晴らしいtweetありがとうございます。まさにその通り!!早速お気に入りに追加させて頂きました。以下、原典にあたって得られた知見の一部。
・ケインズ批判の感情的ともとれるその文脈(p167 etc.)
・「『ゲームのルール』を決める議論の場として、また決められたルールを解釈し施行する審判役として、政府は必要不可欠である。(P49)」
・「最低限の学校教育を義務づけることと、この義務教育の費用を国家が負担することは、どちらも学校教育の外部効果を考えれば妥当である。(p177)」
・「筋の通った自由主義者は、決して無政府主義者ではない(p84)」
>フリードマンも政府の必要性は認めており、自由主義≒無政府主義であるかの様な歪んだイメージを修正することが出来た。
<自由主義と平等主義>
「自由主義と平等主義(p352〜)」より「自由主義思想の根本にあるのは、個人の尊重である。自由主義では、各自が自分の考えに従ってその能力と機会を最大限に生かす自由を尊重し、このとき、他人が同じことをする自由を疎外しないだけである。このことは、ある点では平等を、ある点では不平等をを支持することを意味する。・・・(中略)・・・だから自由主義者は、権利の平等・機会の平等と、物質的平等・結果の平等との間に厳然と一線を引く。自由な社会が他の社会より多くの物資的平等をもたらすのはよろこばしいことではあるが、自由主義にとってそれはあくまで自由社会の副産物であった、自由主義を正当化するものではない。」まさに秀逸である。自由主義は機会の平等を尊重する一方で、本質的特性として結果の不平等を招き得る思想体系である。これに対して社会主義は結果の平等を尊重する一方で、本質的特性として機会の不平等を招き得る思想体系である。政策決定の際にも「結果の平等と機会の平等とのどちらを犠牲にするか」という視点に立った議論がなされるべきではないかと考える。
<新自由主義と既得権益>
高橋洋一氏の解説より「本書を読んでいて1962年に出版された本であることを忘れてしまい、今の経済問題を論じているかのような錯覚に陥った。(p369)」とあるが、私も同様な感覚を持った。これは確かに本書の質の高さを示す根拠の一つであるが、一方で、過去50年間における政策実現率の低さをしめす根拠ともなり得るのではないか。メタボな政府のダイエットには既得権益というハードルが立ちはだかっているという問題意識と、そのハードルをこえてダイエットを成功させることの必要性、重要性について再認識した。
本書は自分にとっての「自由であることの教科書」である。
2010/02/06sun.
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